口で言うのは簡単、誰にでもできるけれど、実際に行うのは難しい。
吉田一平さんは、区画整理で、ふるさとの長久手から雑木林がどんどん切られてなくなってしまうのをみて、「雑木林をなんとか残したい」「ふるさとの原風景を取り戻したい」と思いました。
サラリーマン時代「5時から」が待ち遠しくて仕方がなかった一平さん。
地球上の動物や植物たち、人間でも幼い子どもやお年寄りたちは「5時から」の生活をしている。
他人から拘束されず、せきたてられず、自由に過ごす時の楽しさを満喫している。
そんな夢のような「ゴジカラ村」をつくりたいと考え、行い、いまもそれは続いています。
行動力と持続力のある、そしてたくさんの人々に「よし、一緒にやろう!」と思わせる、一平さんについて、シリーズでお知らせをするページです。
いっぺい君物語は昭和54年に出来たたいよう幼稚園のお母さんたちのグループが幼稚園の理念に賛同して作られた物語です。
英才教育の流行る中、ずっと遊んでいるだけの幼稚園にはエールを贈りたくなる何かがあったから、この物語が生まれたと思います。
むかしむかし・・といっても、そんなにむかしの事ではありません。
長久手町に、まだ山や原っぱがたくさんあって、マンションみたいな高い建物などひとつもなく、ポツポツンと家がたっていたという・・・。
そう、もしかしたら、「ながくて村」だったころのお話です。
ここに、いっぺい君という、それは元気な男の子がおりました。
いっぺい君が生まれる少し前、「太平洋戦争」がありました。日本中が食べる物に困っていたこの頃、いっぺい君のお母さんは、うまれた四人の子どもたちを、つぎつぎに亡くしてしまったのです。
やがて、長くつらい「戦争」がおわり、平和な時代がやってきました。
そんな時、「おぎゃあ」と生まれたのが、いっぺい君だったのです。
でも、四人の子を失った悲しみは深く、いっぺい君のやすらかな寝顔を見ても、お母さんの心には、いつもこんな考えがうかんでしまうのです。
「この子もきっと、ほかの子と同じように、すぐに死んでしまうにちがいない。すぐに死んでしまうのなら、どうぞ一日でも長く、楽しく、元気にすごしておくれ。」 ・・・・と。
お母さんにとって、それだけが、赤んぼうのいっぺい君にかける、たったひとつの願いでした。ですから、やがて学校に行くようになっても、お母さん言うことといえば、
「いっぺい。ごはんは食べたかい。」
「いっぺい。勉強なんかせんでいい。いっぱい遊んで来い。」
と、これだけでした。
いっぺい君の家は、小高い丘のふもとの林の中にぽつんとありました。夏は、あっちの木こっちの木とせみを追いかけ、顔は真っ黒。冬は、木枯らしの中、ほっぺをまっかにして、いつもお日さまが西の空にしずむまで、ながくて村の野山をかけまわり、お母さんの心配を吹きとばすように、すくすくと、育っていったのです。
中学生になっても、やさしい先生のスカ-トをめくったり、あいかわらずのワンパクぶり。そう、みんなのクラスにひとりやふたりはいる、悪がきの、ひとりだったのです。
それでも、お母さんの願いは変わること、かける言葉といえば、「ごはんは食べたかい。」「もっと遊んで来い。」と、たったこれだけでした。
やがて時はすぎ、「すぐ死んでしまうだろう。」と、お母さんが、半分あきらめの気持ちで生んだ、いっぺい君も大人になり、「会社」で、働くようになりました。
そして、はるこさんという、元気でやさしい女の人と結婚して、次々に、かわいい子どもたちが生まれました。いっぺい君も、お父さんになったのです。
会社で働く毎日は、忙しく、またとてもやりがいのある日々でした。いっぺい君が頑張れば、品物は次々売れ、会社の人たちにも、とても喜ばれました。
そんないっぺい君を見てすこし年をとったお母さんが、声をかけます。
「ごはんは、ちゃんと食べとるかい。」
「仕事ばかりしてないで、遊んでこいよ。」
でも、すっかり「会社人間」になってしまったいっぺい君は、「はいはい。」と返事だけすると、また夜おそくまで、みんなとお酒を呑み、次の朝は、早くから仕事に飛び出してゆく、という毎日だったのです。
そんなある日、いっぺい君はとうとう、病気になってしまいました。
何か月も入院した後、お医者さんから「退院してからも、しばらくは家でのんびり、体をやすめるように。」と、云われてしまいました。
久しぶりに、朝も昼も夜も、区切られない時間が、いっぺい君に戻ってきました。
家の縁側から寝転んで見る景色も、いつの間にか、すっかり変わっているのに気づき、驚きました。
子どものころに遊んだ裏山は、半分に切り崩され、その向こう側で今もブルドーザーが、次々と土を削ってゆくのが、遠くに見えています。
~子どものころあそんだ、山や野原もけずられて、このあたりも大きなまちに、変ろうとしているんだなあ。~
会社にはいって、一生懸命走り続けた日々。それはそれで、とても生きがいのある毎日でした。でも病気になって、走り続けるマラソンの列から離れてみると、本当にこの世の中で、大切なもの、変わることなく大事なものとは何だろう。ふと、そんな考えが、浮かんできました。
裏山の土のかたまりを、うれしそうに登ってゆくのは、いっぺい君の三人の子どもたち。いちばんチビさんは、おしめをしたおしりを、ふりながら・・・。
~子どものころは、おもちゃなんかなくたって、虫や草や冬の冷たい風にだって、心が浮き浮き躍ったじゃないか。チビたちもああやって、土のヒンヤリした冷たさや、あたたかさを手足に感じて、夢中で登っていく。いつの時代になったて、大切な物、心あたたかくする物は、変わりないはずなのに・・・。~
このままでいると、子どもたちが手にする大切なものが、どんどんなくなってゆく事に、気がつきました。
「そうだ。子どもたちに、水やみどりや土がいっぱいの、場所を残してあげよう。むかしぼくたちが、手に触れて育ったもの、ぜんぶを。」
長い長い、休みが終わるころ、そう考えついたのです。
そこで、今は、すっかりお父さんになっている、昔のわんぱく仲間に、話してみました。
「いっぱいの、子どもたちの遊び場を、どこかに作ろうと思うのだけど。」
「それはいいね。でもどうせ作るのなら、幼稚園を作ったら?ぼくらの子どものころみたいに、木や草むらがあるところで、一日中遊んでいられる幼稚園。どこにでもありそうで、どこにもない幼稚園を。」
「そうか、一日遊んでいられる、幼稚園か・・。」
いっぺい君の頭の中に、みどりのこんもりしげった林の中を、大きな声をあげて見えかくれする、たくさんの子どもたちの姿が、浮かびました。
話をきいて、はじめはびっくりした、奥さんのはるこさんも、やがて、協力することにしました。
-子どものとき、いちばん楽しかった遊びは?
-それは、親の目の届かないところに作った「秘密基地」さ。
-隠れて遊ぶのは、本当に楽しかったね。
-それには、木をたくさん残そうよ。お山もなるべく、削らないで。
-太陽は、人間や草木や動物を、大きく育ててくれるが、また雑草も同じように育てる。役に立つもの、立たないものなどという、区別なしに。みんなに、同じ光を与えてくれるのが、太陽なんだ。だから、この幼稚園に「たいよう幼稚園」という、名まえをつけよう。
いろんな人に話すうちに、いっぺい君の夢だけでなく、みんなの夢や、希望も付け加えられ、だんだんに膨らんでゆきました。
場所は、県営住宅のそばはどうかという話もでました。もっと、森のようなところがいいね、という意見もでました。
やがて、夢は夢でなく、本当のことになってゆきました。
園長先生には、いっぺい君が中学生のとき、どんなイタズラをしても、いつも、やさしい目で見守ってくれた、にしむら先生に、お願いすることにしました。
奥さんのはるこさんも、お母さんから、先生になりました。
こうして、少しずつ少しずつ、準備を進めて、何年か後のある年の四月。
杁ヶ池のそばに、みどりいっぱいの「愛知たいよう幼稚園」が、できました。
いっぺい君はサラリーマンから、園を作った人「理事長先生」に、なったのです。
はじめの年に入園してきたのは、みんなで九十人くらいでした。
来る日も来る日も、お山にゴロゴロ残る石を、みんなでどっこらしょとどけるのが、毎日の遊びのひとつ。そんな風になにもかも、みんなで、考えたり楽しんだり・・。
春を夏を秋を、そして冬を体で感じながら、ゆっくりのんびり、「たいよう幼稚園」の最初の一年が過ぎていきました。
あれから、十年。
子どもたちの数もだんだんふえて、クラスも九クラスになり、園舎も建て増ししました。
道路もなく、大きな建物といえば、幼稚園だったのに、杁ヶ池には、立派な体育館もできました。まわりにどんどん家がたって、原っぱから見えた杁ヶ池も、今はマンションの影です。
でも、幼稚園の中の時間は、いつもゆっくり過ぎてゆきます。
パンツ一枚で水のかけっこする子・ふくろにいっぱいさら砂を作る子・ターザンロープが得意な子・太い枝を見つけて一日お昼ねする子・水をおみやげにする子・けんかをして泣いてる子・それを見てなにがいけないか、ちゃんと先生に説明する子・泣きながら、でも自分がいけないかな、とすこし気がつく子・ボーっとしていたい子・お部屋より原っぱが好きな子。
それらはぜんぶ、子どものころの、いっぺい君の姿なのです。
お母さんが、「ごはんをいっぱい食べて。」「勉強や仕事ばかりしてないで、楽しい事をしておいで」と望んだ姿、そのままに。
そして、この子どもたちの毎日は、これからも変わる事なく、この園の中で見られることでしょう。 十年たっても、二十年たっても・・・。
きっと・・・。
おしまい
みちくさをくえるところ、みちくさをゆるせるこころのあるところ。
3月23日、一平さん自らが運転して、4tトラックに野菜や生活必需品を積んで仙台市と石巻市へ行ってきました。
途中で衛生用品が要るからと連絡を受けて、お店にある衛生用品を全部買ってみたり、子どもが甘いものを欲しがっていると知るとチョコレートを山ほど買って届けました。
現地の人と連絡を取り合って、必要なところに必要なものを届ける。小さな支援のはじまりです。
一平さんは言います。
東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故でみんなが自分たちで灯をともす。自分たちでまちをつくる。誰もが必要とされていると実感できる社会をつくる。
一人一人が自分も役に立つと思いはじめて日本が変わり始めていると思います・・・と。
ゴジカラ村は、1981年「愛知たいよう幼稚園」開設から2011年のいまも現在進行形で動いています。
豊かな緑の猪高緑地公園と造成地に囲まれて、長久手町の福祉の拠点「ゴジカラ村」は、緑いっぱいの中で特別養護老人ホーム、ケアハウス、デイサービスセンター、在宅介護支援センター、訪問介護ステーション、グループホーム、幼稚園、託児所、介護専門学校、長屋、リタイヤメントハウス、古民家などの多様な施設や活動が、緑をつなげて「まち・緑・人のオアシス」をここに実現させています。
そして、まちの中で、自然と一緒になって、多世代で最後まで安心して暮らせるまち。子どもたちの明るい声が聞こえるまち。歳を重ねても自分らしく役割の持てるまち。皆で生きていくことを共感できるまち。
こんなまち長久手ができたらいいな!と一平さんは思いはじめています。
人生60年代の教育 : 時間に追われる国へ行く教育
人生80年代の教育 : 時間に追われない国へ帰ってからも暮らせる教育
家庭、地域、子供や老人たちのいる暮らしの場
- 遠回りすればするほど、多くの人たちが楽しめ、いつもぐちゃぐちゃしているから、どんな人にも役割や居場所ができてくる。
- 存在することに価値がある。
- 形容詞の世界だから、よくもめる。
- 雑木林のように、いろいろな人がいろいろなありようで暮らしており、解決とか完成とはほど遠い。でも立つ瀬がうまれてくる
- 特定の目的を持たずに生活する人
- のんびりしても楽しめる人
- 主観的世界に生きる人
- A・Y・Oを大事にする人
- 手間暇のかかるところではじめて必要とされる人
- 感性で物事を見る人
- もっぱら消費する人
- 責任が問われることが少ない人
- 無駄が多く、無駄の必要な人
- 自然なもの(雑なもの)を面白いと感ずる人
- プロセスを楽しめる人
- 人をはかるものさしがある人
- 自分の欲しいものがある人
- ほどほど、まあまあ、適当が通用する人
- 正解がなくても、苦にならない人
- 少人数が心地よいと感じている人
- いいことを入れると悪いこともついてくると感じている人
子供たちは・・・
今を何でも楽しむことのできる能力
自分で楽しみを探すことができる能力がある
老人は・・・
学校、病院、企業、軍隊等、働く人たちのいる仕事の場
- 目的に向かって最短距離を最高の効率で行く為に、分業化、専門化してきた。
- 能力価値を大切にするところ。
- 数値の世界は、追われ続ける。
- 問題をみつけ解決したり、ものごとを完成させることをめざす。そのため不要なものは切り捨てられたりする
- 特定の目的に向かって働く人
- きびきびと働くことをいいと思っている人
- 客観的であることを求められる人
- I・S・Oに価値を求める人
- 便利な所に居場所のある人
- 数字で物事を見る人
- 働いて収入をあげる人
- すべての面で責任を負っている人
- 効率性が求められる人
- 人工的なもの、規格品を取り扱うことが上手な人
- 結果が大切な人
- 人をはかるものさしの少ない人
- 他人がいいというものを欲しがる人
- 何でもきちんとしていないと気がすまない人
- 正解はあると思っている人
- 大きな単位がいいと思っている人
- 悪いことを切り捨てるといいところになると思っている人
他人からいつもテーマを与えられる
(・・・・・・・・のため、・・・・・・・・のため)
ここに1枚の紙があります。そこには、一平さんの幼稚園創立のおもいが書かれています。
「もっとゆっくりくらしたら・・・」
21世紀は、それぞれがそれぞれの存在価値を知り、そして認めあうという新しい個性の時代になるであろうと思います。その中からは全く新しい社会ができてくるかもしれません。
わたしたちの園では、幼稚園時代にしか学ぶことのできないものを体験、子どもらしい子どもでいられる時を過ごせるようにしたいと思っています。特に自然の仲間であることを知り、その自然の中での四季を楽しみながら、ゆっくり暮らし、自然を相手にみんなで思いっきりそのおもしろさや生きていることの楽しさを、本能の部分にたっぷりと吸い取らせてやりたいと思っています。
しかも、この太陽のもとに生きているものはすべて、どれもどの人もかけがえのないものであるということ、そしてもっとゆっくりした暮らしの中で、無用と思われていたことや価値のないものとされていたものの中にも大切なことがあるということなども、子どもたちと一緒にまなんでいくことができたらと考えています。
1980年に、川崎市で金属バット両親殺害事件が起こりました。エリート家族の中で受験に失敗した予備校生が金属バットで両親を撲殺した事件です。
この時一平さんは考えました。
私たちは子どもが、3・4・5歳のころには小学校入学前に字を覚えさせなければとか、水泳はできなければ・・・などと6・7・8歳のことを考えて、次は中学生になった時のために何をさせておこうか・・・と考えて、いつもいつも先のことばかり考えて子どもを追い立て、追いつめているのではないか。子どもは、いまを生きているのに・・・。
子どもが生まれて、歩くようになって、遊ぶようになったその時に、小学校に入ってからのことを考えている。3・4・5歳のときに生きていることがこんなにおもしろいのかと感じさせることが、私たち大人の役目なのに。
そこで1981年に、一平さんはひたすら遊べる、隠れる場所のある幼稚園をつくりました。山を残し、山の中に幼稚園をつくり、絵も描かない、冷房暖房もない、ひたすら生きとし生けるものを周りにおいてのんびり過ごす幼稚園をつくりました。
そして1992年には「もりのようちえん」(自然幼稚園)も。
「会社はおれが背負っている」と自負するモーレツ社員だった一平さんが、過労で倒れて10ケ月近く会社を休みました。回復して出社してみると「会社は自分がいなくても関係なくまわっていた」。そして居場所を失いました。
当時長久手町には消防署がなく、住民たちがボランティアで消火活動をしていました。地元消防団の分団長として任期1年を務めることになった一平さん。「消防団を率いて火の中に飛び込んで行った。夢中だった。火が消え「ありがとう、ご苦労さん」とみんなから言われて、感動。地元で自分が必要とされていることに生きている手ごたえを感じた」。
消防があるたびに会社を休むので、会社からは怒られてばかり、1979年10月会社を辞めました。
一平さんは社会福祉の素人でした。
ひたすら遊べる幼稚園や古民家には、近所のおばあさんたちも集まってきました。ところが、おばあさんたちは月日がたつとだんだん体が不自由になって来られなくなります。世話をする家族からも老人ホームをつくってほしいと言われるようになりました。
そこで、あちこちの施設を見て回りましたが、どこも鉄筋コンクリート建で、白い壁に蛍光灯、職員はおそろいの制服を着て皆同じようにお辞儀をして、そこはまるで会社みたいでした。
一平さんは、木造で、縁側があって、家のまわりには畑や柿の木やいろんな樹があって、鶏がいて、子どももお年寄りも一緒に暮らしている。そんな特別養護老人ホームを先祖から受け継いだ雑木林の中につくりたいと思いました。そこに暮らす人は施設入所者ではなく、「杜人さん」です。
曲がりくねった廊下は、その先になにがあるのだろう・・・と歩く気持ちを誘います。
三味線をかまえると背筋がピンと伸び、「いよっ」と掛け声をかけ、見事に弾く杜人さんもいます。
認知症の方が暮らすグループホームのかまどの前では、若いスタッフはお手上げ、でもお年寄りたちはイキイキ、テキパキ!おいしいご飯を炊き上げます。
介護を受けるお年寄りはいつも「すみませんありがとう」とずっと言っています。立つ瀬がありません。でも、そんな中でも、もめ事が起きると「ちょっとちょっと」と一平さんを呼んで、「あの子とあの子がけんかしとる」とうれしそうに報告します。そこで感じました。けんかの仲裁ならお年寄りでもできる。私たちスタッフが頑張らないほうが、お年寄りがいきいきできる。お年寄りにも立つ瀬、役割ができる。私たちも楽になり、全体がおおらかになる・・・と。
高度経済成長時代の前までは、リヤカーを年寄りも子どもも犬も一緒に引いて・・・という光景がみられました。それが耕運機にとって替わってしまった。みんなが役割や居場所や立つ瀬を実感できる場所をなくしてしまいました。
さぼっている人(たとえば寝たきりのお年寄りは介助がなければ食事も着替えできません。働く人から見れば何もしないでさぼっているようにみえます)、そんな人の存在価値を認める社会が来たのだからもっとおおらかになろう。ゆっくりした暮らしを取りもどし、みんなが生きていて良かったと思えるような生活をつくりたい。
ケアプランよりライフプランです。
「雑木林はいろんな木や生き物たちがお互いに必要不可欠な存在として補い合い、終わることのない命の営みを繰り返している。同じように人間も助け合って、補い合ってはじめて、それぞれが自分らしい役割を発揮し、自分らしい居場所を見つけることができる。ごちゃごちゃと一緒に暮らせばわずらわしく、もめることもあります。うれしいことも楽しいこともあれば、うまくいかないこともあります。少しくらい不便なほうが助け合えるでしょう。正解などはないのだから、未完成なのだから。何事もほどほど、ぼちぼち、だいたいが一番。そうしてお互いが少しづつ我慢しあってお互いの存在価値を認めあえる、そんなみんなの居場所づくりを実践しています」。
区画整理で栄えてきた長久手のまち、そのまちからのまちづくり提案は、右肩上がりの土地神話に頼る都市計画事業とコミュニティ開発からの発想の転換です。 東日本大震災で見えてきたまちづくり提案、住民支え合いのまちづくりは、ケアサポートを整備するだけの発想からの転換でもあります。
一平さんは必要だなと思うと「よし、やろう」と行動して成し遂げるひとです!
私たちは、そんな一平さんを応援しています!